旧型客車
2004年 10月 21日
昭和50年代の後半、東北・上越新幹線の誕生、急行列車の削減、赤字ローカル線の廃止、長距離普通列車の短距離化など分割民営化を前にして、合理化を進めていた国鉄は戦前から昭和20年代に造られた車両を次々に廃止し、それまで急行列車で使用していた車両や新造車に取って代わられた。
一人で鉄道に乗れる頃には既に蒸気機関車が一般運用されておらず、戦前から昭和20年代に大量生産された旧型客車はなんとしても乗っておきたくて、各地へ出かけては何本か乗車した。
私の両親の実家は小倉と大分にあって、夏休みになると、その度に往復していたが、父+母+兄+私の場合は「特急にちりん」のグリーン車、母+兄+私の場合は「急行ゆのか」もしくは「急行日南」、兄+私の場合は大概普通列車となっていた。
時刻表が愛読書であった兄と私は誰もがあまり気にしないと思われるその列車の上の方に記載されてる数字で書かれる列車番号でどの列車に乗るか決めていた。日豊本線は既に電化されていたので「・・・M」という電車を表す列車が多く、単に機関車に引かれる客車を示す例えば「503」であるとか数字のみの列車名には敏感で、国鉄全線この客車を示す数字がある路線はいつか乗りたい路線の一つに挙げられていた。ただ既にレッドトレインと呼ばれる新造車が旧型客車に取って代わられはじめており、時刻表で”数字のみの列車”を求めて筑豊本線や久大本線へ乗ったとき、この味気ない列車が来たときにはがっかりさせられたことが多かった。
日豊本線にも数本客車鈍行が走っていて、夕方に門司港を出発し、柳ヶ浦まで行く列車は旧型客車で、大分までは乗り継ぎで客車鈍行があったが、こちらはレッドトレインとなっていた。小倉-柳ヶ浦にはこの旧型客車に何度となく乗車した。
旧型客車の魅力は前近代的雰囲気はいうまでもなく、その開放感と旅愁感であろう。
その客車の一番後ろに行けばその列車のつなぎ目はオープンになっていて、扉は開けっ放し、ホームに滑り込む停車直前に降りたりまたは乗ったりと走行中は全身を風にあてて田舎の空気をタップリ吸ったり、また田舎の駅に停車した際は客車なのでモーター音などないので、シーンとした中に小動物や昆虫の鳴き声または川のせせらぎの音などがニスの香りがする客車内とマッチして旅というものが単なる「距離」のみならず歴史的な「距離」をもプラスして創造性を駆り立てる。
いちいちの装飾品がもう身近にはなかったようなものばかりで、煤煙を気にしなくていいこの頃は窓を全開にして、雑音のないクリーンなワルツでも聞くようにレールとレールのリズミカルだがゆっくりの音を楽しんでいた。
柳ヶ浦まではあっというまに過ぎ、駅前の東京食堂で兄とカツどんを食べてからの記憶はあまりない。
ただあの忌まわしいレッドトレインも数年前まで”乗りたい”対象に格上げし、さらに定期運用からなくなった。
こん度観光列車化されているとはいえ大井川鉄道にでも乗りに行こうかと思っている。
写真は田沢湖線の旧型客車。
by mashengkuan4477
| 2004-10-21 19:54
| 鉄道